「七夕の国」

初出 「週刊ビッグ スピリッツ」1996年第38号から1999年第6号まで(小学館ビッグコミックス全4巻)

岩明均


 「七夕の国」について語るには、どうしても「寄生獣」との比較が必要になります。
 まず、「七夕の国」についての率直な感想は、「寄生獣」によって鬼才と呼ばれるほどの作家になれば、当然期待されてしまう次回作ですが、岩明均はそうした圧力による歪みを主人公・南丸の楽観的な性格のように軽くいなして書きたいように書き、作者なりの視点によってあっさりとまとめてくれまして、とても楽しく読めました。そうして読み終わって漸く、作者の一番伝えたかったことが、じんわりと伝わり、印象深くなりました。
 冒頭の合戦場面でまず、この物語の鍵がいきなり示されます。「見たぞ…」といって倒れる武将の言葉と謎の能力を使う指を六本持つ覆面の人物です。これは物語が最後まである程度練られていた証拠であり、「寄生獣」のように後から継ぎ足していった結果壮大な主題を掲げることになり、収拾のつけかたに苦労するのを嫌ったためでしょう。そのため、模索するように物語を盛り上げていった「寄生獣」に対して、「七夕の国」は最初から主題が提示されます。
 この超能力はなんの役に立つのか…
 実にわかりやすく身近な主題です。主人公・南丸はこのわけのわからない謎の能力をどうにか生かせないものかともがき始め、冒頭の合戦が行われた「丸神の里」に辿りつき、物語が展開されますが、「寄生獣」のようにドラマを積み重ねることなく、単刀直入に主題のみを追っています。そのために登場人物は最初から最後までほとんど変わることなく、読者を盛り上げる、感情移入させやすい展開には至っていません。ですから「つまらない」という人もいるでしょう。それは仕方ないことだと思います。
 「寄生獣」では序盤で母親を死なせて主人公・新一が寄生獣に立ち向かう動機付けを明快にし、さらに新一に超人的な能力を与えれば、寄生獣との戦闘が今後幾度となく繰り広げられる予感がします。一方の「七夕の国」では戦闘そのものがなりたたない、読んだ人ならわかりますが、例の能力では地球すら危ないわけで、結果としてセリフによって物語を動かざるを得ないわけです。それだけに後半の急展開は、まさに急展開と感じてしまう印象を強烈に与えます。ビルを消したり、官邸を消したりすることが出来そうなだけに伏線がないわけではないのですが、南丸の性格の影響もあってか、物語自体がゆっくりな感じです。
 さて、南丸青年は就職という現実的な問題を抱えながら、徐々に大きくなる自分の超能力を生かす方法を探ります。これは丸神町の「領主」丸神頼之が町を離れて同じように能力の使い道を求めるのと並行して描かれ、いずれ出会うであろう二人の未来が多少気がかりになります。ですが能力に差がありすぎて勝負にならない感じですし、最後の決戦のようなものはあまり期待できませんでした。
 この能力はなんの役に立つのか…。劇中で頻繁に問われながら、さっぱり答えが見つからないもどかしさは、読者自らに超能力の謎を考えさせる契機になるのですが、連載中では苛立ちに変わりやすいかも知れませんね、まとめて読めば面白いですよ。
 そうして山場を迎えるわけですが、すべての謎が氷解しながらもすっきりしないと感じました。それは第四巻一六九頁最初のコマの多賀谷の思い「ロマンが一気に消し飛んだな」が代弁してくれますので、作者も自覚していたのでしょう。結局宇宙人だったんかいな、とちょっと拍子抜けしたことはしましたが、「寄生獣」の発端も宇宙(そら)から降ってきた「何か」であることを考えれば、腹を立てるようなことではありません。
 作者が伝えたかったことのひとつが丸神頼之と幸子を挟んでの南丸の叫びです。以下に引用します。
 「世の中のことテレビでざっと見て、わかった気になったって! そんなのウソだぜ! …中略… 世界は目で見えている大きさの百倍も千倍も広いんだぜ! それに比べりゃコワイ夢も、見えない鎖も、ハデな超能力も小せいよ! ごくごく一部だよ!」
 「寄生獣」では世間の上っ面だけの環境保護に対する作者の憤りが滲んでいました、「七夕の国」では見せかけ(能力)に引きずられて主体性を失っていく世間へのばかばかしさがありそうです。
 「寄生獣」はそんな作者の憤りが「人間こそ寄生獣より恐ろしい寄生獣である」という恐ろしい余韻を残しました。「七夕の国」はどうか、私見ですが、私は学校で将来なんの役に立つかわからない数々の勉強を思い出しました。実際に勉強したことが役に立つかどうかわかりません。しかし、そうした勉強によって身についた知識や能力をいかに自分の物として生かすことが出来るかは、やはり自分次第なのです。丸神教授がクローン技術について話す場面はいささいか唐突の感がありますが、これは人間が得た技術つまり能力をどうつかっていくかは人間ひとりひとりが考えなければならない問題であり、けして他人事ではないことを訴えているのかもしれません。東丸高志はどうなったでしょうか、彼は超能力の使い道を他人(丸神頼之)に頼ろうとした結果あっさり死んでしまいました。
 南丸青年と丸神頼之は役に立たない超能力をどうするかについて自ら考え、それぞれ全く違う解答を導き出しましたが、どちらも自分にとって最良の道を見つけたに違いありません。二人は答えを選んだのではなく、自分で作ったわけです、窓の向こうに通じる道を、あるいは川を渡る橋を。
 ラストシーンの「ようこそ」は、自ら切り開いた道の「入口」で待っていた女神の微笑みのようでした。

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