吉田秋生「遠い雷鳴」海街diary7巻」

小学館 フラワーコミックス

龍の声



 鎌倉を舞台に四人姉妹のそれぞれを描く吉田秋生「海街diary」も7巻に至り、物語は結末がうかがえる終盤に入ったように思われる(そう言ってまだまだ連載続くかもしれんが)。そんな中、スポーツ推薦で高校進学を控えた四女・すずと、店長と付き合っている三女・千佳の対話が描かれた「遠い雷鳴」の一場面が、大きな違和感を読者に与えた。
 すずの背後から描かれた151頁4コマ目である。
 セリフを言う千佳の表情が、すずの頭に隠されて描かれないのだ。店長への想いが込められた、あの日の青空は山に行かないと見ることができない。登山家だけにしか見えない・互いに抱えている風景があることを千佳は知っていた。
 2014年公開の「アンナプルナ南壁 7,400mの男たち」というドキュメンタリー映画がある。2008年5月、アタック中に高山病で重体となり身動きの取れなくなった1人のスペイン人がいた。たまたま現場に居合わせた各国の登山家たちが命がけで救出を試みる。映画は、彼らを取材する形式で描かれ、そこで何が起きていたのかを次第に明らかにしていく。登山家には、登山家だけが共有できる絆がある。そんなことを強く認識させた映画だった。
 何故そんな危険な場所に自ら出向くのか。映画の中では、度々そんな問い掛けがなされる。みな、それぞれの理由で日常生活の合間を縫って山に挑み続けていた。単なる趣味だという者もいれば、非日常を体験できる高揚感を求めた者もいる。生きている実感を得られる稀有な体験だと述べる者もいた。
 居間で卓に肘を突いてL字に対していた千佳とすず。千佳はタブレットパソコンを広げ、登山仲間のシェルパの葬儀のためにネパール・ヒマラヤに滞在している店長から来たメールを確認してるところ、すずは友達の来訪の準備を終えて小休止といった按配で、姉二人は外出しており、珍しい組み合わせとも言えた。すずを中心に姉たちとの関わりを描きつつも、母親的存在の長姉・幸と、良き姉御の次女・佳乃がすずと絡む場面が多く、千佳も姉とは言え、すずと最も年齢が近いこともあり友達に近い存在だった。
 7巻では、姉二人の恋愛模様が象られていく一方、千佳と店長の関係が並行して描かれた。ちょっと話があると言われて、少し頬を染めた風に描かれた千佳が期待していたものは何だったのか。はっきりと付き合っている描写がなかったけれども、同じアフロの髪型で恋仲なのは間違いないだろうと周囲にも読者にも思われている二人だったが、ここにきて、千佳の寂しげな態度が描かれることになった。
 どんな話があったかは描かれないまま、佳乃が仕事帰りの暗い夜道で、ぽつねんと空を見上げている千佳と遭遇する。同じ月を見ている、という副題に照らし、佳乃と千佳はまん丸の月を見詰める。誰がどこから見ても、同じ月である、普段の明るい千佳の態度からは想起できない変化に、読者は興味を惹かれていく。
 店長がネパールに行く理由が海岸で語られる次話で、彼女は店長から「最近 元気ないね」と指摘される。彼はしばらく会えない寂しさと悟ったようだが、千佳の浮かない表情の理由は、本当にそれだけなのだろうか。彼女のモノローグが、店長はこのまま戻らないのではないかという不安を綴り始めることで、店長の「しばらく」が彼女にとっては永遠の別れのように感じられる。それでも、ここまで落ち込んだように見えるのは、さらに理由があるのではないか。
 もちろん、店長の心情は前巻で描かれてもいた。ネパール行きを決めた表向きの理由が語られる一方、彼が何かを気にしているようにも描かれており、千佳の抱えている問題に気付いているのかもしれない。
 さてしかし、カトマンズから来た店長のメールで、現地が雨であることが触れられた。庭の縁側から眺めた天気、雨が降らないことに、千佳は漠然と不安を感じる。もう同じ場所にいない二人の関係。
 それが、151頁で確信に変わるのだ。彼女は何かを隠している、おそらく――171頁ですずがゴミ袋から見つけたもの――間違いない。
 読者に少しずつ明かされていく千佳が抱えていた本当の不安を発見するのも、やはりすずだった。物語の節目ですずか触れてきた姉妹の悩みは、ここでも多感な思春期の溢れんばかりの行動力で、千佳の現実を目の当たりにさせた。
 新たな恋愛が本格的に始まった姉たちと、風太との仲が公然の秘密となった感のあるすずに対して、最初から彼氏がいた千佳に訪れた別れの予感は、また新たな出会いの予感でもあった。妊娠していることが明らかになったラスト、千佳の決意は産むことだったのか。すずの高校進学が物語の大きな節目になるだろう先の展開を見据えつつ、千佳の妊娠・出産が、またひとつ、物語に大きな山として聳え立ち、うねりをもたらすことは明白だ。
 アンナプルナで救出活動を終えた登山家たちは、途中、ヒマラヤ観光に来た多くの人々とすれ違った。久しぶりの山にやってきた店長のメールの内容と、少し落ち込んだような顔付きで日常を過ごしている千佳同様、その時撮られた一枚の写真は笑顔あふれる観光客たちと、俯いて肩を落とした登山家たちの姿と対照する。
 だが、どこからともなく聞こえてくる雷鳴を、ネパールと並ぶヒマラヤの麓の国ブータンでは、龍の鳴き声だと言う言い伝えがある。遠いヒマラヤの地にいる龍の声が、千佳の元にまで届いていると想像することは気休めに過ぎないだろうか。

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