「ユートピアズ」

小学館 ヤングサンデーコミックス

うめざわしゅん



 上手い。手馴れすぎている感もあるが、上手い。
 まず設定が上手い。連作「ユートピアズ」はいずれも普通の世界と少し違った世界が舞台になっているだけで、話自体は極めてオーソドックスというか類型的というか、先が容易に読めてしまう展開ばかりである。おかしみを引き出しているのは、しかしそれが一番大きな理由になっている。奇抜な舞台を際立たせるために、物語を目立たなくしているわけだ。展開もオチも読めるにもかかわらず読み進めてしまうのは、まあ短編というのもあるけど、平凡な話がこの世界ではどんな風に転がっていくのかを見守るってのもあるだろう。つまり、舞台を強調するために引っ込んだはずの物語が、引っ込みすぎて・あまりに標準化されているがために、かえって際立ってきてしまい、最後には物語そのものが自律して結末を迎えるという、とんでもなくアクロバティクな作品群なのである。
 パターン化された物語自体をパロディにしているとも言える連作の中で、特に奇妙な昂揚を覚えたのが「センチメンタルを振り切るスピード」だ。物語の世界がこの世界と一つだけ違うのは、みんな走っている、という一点のみである。常に走っている。家の中も登下校もどこでもかしこでも。ただそれだけだ。物語そのものは題名どおりに十代のセンチメンタルを平々凡々に描ききろうとしている。東京から6年前に田舎に越してきた主人公の少年・直樹と地元の少女・坂口、不良っぽい少年で少女とは幼馴染の晋也。主要な登場人物はこの3人だ。直樹と坂口は惹かれあっていながらなかなか次の一歩を踏み出せず、晋也は坂口に好意を抱きながらも二人の関係に苛立っている。直樹は東京の美大に進学が決まり、晋也と坂口は地元に残る。直樹は最後の最後で坂口に気持ちを伝えるが、坂口はやんわりと拒み、二人は別れた。直樹は東京の新生活にすぐ馴染んで新しい友や恋人も出来るが、ある日、晋也から連絡が入る……
 冒頭から走って登校する高校生たちの姿だけでおかしかった。なんで走ってんねん、という突っ込みも構わず、それが当然の世界なんだと気付くと、普通の話なのに、早く走らねーかな・こんなシチュエーションでも走るのかよ、という本筋そっちのけで楽しんでしまった。話が読みやすいからこそ、余計な場面に視線が届きやすかったのだ。セリフなんか適当に読み流し、とりあえずどんどん走れよみたいな期待感がもたげてくると、母親が食卓でダッシュする場面だけでもう十分ばかばかしくも微笑んでしまうのである。しかも太った人物も描かれない。走ってるからみんなそこそこいい身体してるっぽいんである。
 類型化はなにも話だけに限らない。例えば人物の向きだけを見てもそれは計られている。視線誘導とも絡むけど、「センチメンタル――」はほとんどの人物が右から左に走っている。右利きだから左向きの人物が描きやすいってのももちろんあるんだろうけど(いや作者の利き腕は知らん)、たまたまそうなっているわけではない(と思う、まあ半分こじつけだが)。ラストのコマをみるとわかりやすい。第1話は左(つまり先の展開・未来)に去っていくナオミが右(以前の展開、過去)にいる少年に叫ぶところから少年の正面顔(靴が思い出の品として残る、その瞬間が記憶に刻まれたってことかね)になって、暗転、ナレーションが入って終わる。第2話もほぼ正面のカットを連続から真っ暗な底に落ちいく予感を残して終幕する。第3話は正面か右に向かう場面がほとんど、冒頭のコマこそ左に走っているが、そこだけだ。電車に乗った時点で、すでに主人公は後戻りできない地獄に向かっていたわけだ、ラストのコマも当然右に向かう電車である。第4、7話のラストはどちらに転ぶか全くわからない状況を指し示し、第8・9話も山場で正面を連続し、右か左かわからない状況を演出しているのがばかばかしいんだけど、ラストで奥に消えていくオチをつけているのが心憎い。第6話は少女の未来が明るく開いたと見せかけて暗転してしまう。で、第5話にあたる「センチメンタル――」は、もちろん左に向かって全速力だ。
 ばかばかしい設定の下で糞真面目な話が描かれる。一見設定にこそ意味ありげだが、本質はそこにはないと私は思う。やはり本質は、物語である。その極みが最終話となる第10話「誰が為にカメは在る」である。
 最終話に至るまでの話で、読者には設定自体がちょっと変だという意識がこびりついている。次はどんな設定で普通の話が描かれるのか。無意識にせよ、読者の期待はそこに向かっている。だから、少し現実と違うものが出てきただけで、話は架空の世界に瞬間移動してしまう、カメ理論だ。だが、この大発見の理論によって世界が劇的に変わるわけではなかった。普段の日常が主人公の目の前で繰り広げられる。世界ひいては宇宙の姿が明らかになったというのに、人々は毎日の生活に追われている、あまりに当たり前な世界、特別でもない世界、最終話において作者は普通のありきたりな話を堂々と展開するのである。世界が変わるはずだと思う主人公と、この設定の下で何か起きるだろうという読者の思いが見事に一致しているのだ。傍観者として物語を眺めていたはずの読者が、あっさりと作品世界に引きずり込まれているのである(私だけかもしれんが)。だが、虚構のはずのその世界は、この世界となんら変わらない世界だった。
 物語の解釈は人それぞれであることは確かだが、だからといって好き勝手な解釈を作者が許しているわけではない。ある程度制御できるのである。「ユートピアズ」は、奇抜な設定・異世界を描きながら、最後の最後で平凡な話を平凡に描いてしまい、それを最後まで読ませるという大回転を果たした、稀有な連作である。(蛇足。もちろん平凡だからといって設定に手を抜くわけではない。いかにもありそうな・つまりもっともらしさを描くための描写が随所にちりばめられている。最終話のカメ理論が古代仏教の世界観に根ざしているのは言うまでもないだろう。管理社会が描かれやすいのも作品の主題とか作者の主張とかではなく、単なる必然に過ぎない。理想郷が厳格に管理された社会だったというのはSFなりかつての共産圏なりですでに描かれている。だから私が「センチメンタル――」に共感したのは、管理されている社会ではなく、歩行という概念がない世界を描いているからで、これは私の大好きな藤子Fの短編集に通じる精神である。ていうか表紙こえーよ)。

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