「ベランダ」衿沢世衣子 (「ベランダは難攻不落のラ・フランス」より)
世界の縁
イースト・プレス CUE COMICS
衿沢世衣子の短編集「ベランダは難攻不落のラ・フランス」が面白い。どの短編も、従来のファンであればいつもの衿沢マンガに安堵し、初めての読者なら簡素な線から紡ぎだされる軽快だけど重厚な物語世界に酔いしれるだろう。まあ、初めてでなくても酔いしれるんだけど。中でも「ベランダ」という短編が個人的に素晴らしかった。本稿では、この作品について考えたい。
ベランダという場所は家の中でもなければ家の外というわけでもない、丁度その中間に位置する縁(へり)のような曖昧な空間である。この作品では、主人公の隣の家に住む少女がそのベランダを自分の居場所と認識し、塀を乗り越えて主人公の家を訪れてはゲームやお菓子を食べ、彼女にとって家の中でも家の外でもない世界に居心地の良さを感じている様子が描かれている。少女はそれを「別の国」と表現したが、まさしく彼女は曖昧な空間にこそ安住の地を求めていたのである。縁というのは例えば海辺であり川岸であり、あるいは二つの世界を繋ぐトンネルや橋のような、普段なら通過地点として見過ごされる曖昧な境界線である。
この社会の周縁というものに着目し貧困と言う社会問題を娯楽作品に仕上げた傑作映画が今年カンヌで栄冠に輝いた是枝監督の「万引き家族」である。この映画がベランダや縁側というものを中心に、そこで描かれる人々の模様を描くことで社会の表でもなければ裏でもない、その狭間に置かれた人々・家族を抽出し、誰からも注目されない世界というものをあらわにしたことは言うまでもない。社会の狭間という問題は貧困問題に帰結しやすいのだが、一昨年のカンヌ映画祭を制したケン・ローチ監督の「わたしはダニエル・ブレイク」にしても、社会保障制度の隘路に嵌って抜け出せないシングルマザーと、医者から働くことを禁じられながらも役所からは就労可能と判断されて受けられるべき支援が受けられない初老のダニエルの交流を描くこの映画の受賞の流れを受けての「万引き家族」の受賞ともまことしやかに聞こえてくるのだが、それはともかく、「ベランダ」はそこまでの重要な課題を抱えてはいないし、作者自身にそのような社会正義の発露があったわけでもないと思われるが、誰もが経験するだろう子どもの居場所としてのベランダは、やはり「万引き家族」を思い出してしまう。
母親の育児放棄によってベランダに放置された少女が、映画の冒頭とラストでベランダの外から眺める景色の意味が異なっていることが映画の素晴らしさでもあるのだが、そうした余白も「ベランダ」に描かれているのだから、やっぱり比較してしまうのである。まあ、これ以上は映画の話になるので、いい加減、マンガの話に戻ろう。
さて、アパートのベランダという中と外がはっきりしない世界で、家の中に居場所がない子どもがどこに居場所を求めるかと言ったら押し入れもあるだろうが、本作は、ベランダと隣家の塀の乗り越えやすさ、引きこもって仕事をする主人公と設定を用意することで、児童虐待と思われている少女に、少女宅を訪問する謎の男と物語の読み応えを終盤まで惹きつける要素を描きつつ、少女の確かな成長を描いている。
と言っても、自分で成長と言うのは疑っている。ラストのベランダは、「別の国」に「ただいま」と言って戻ってきたと素直に解釈できるし、そうすると実は成長していない、あの頃のままなんだとも言える。ここをわかりやすく描くならば、ベランダではなく呼び鈴を押して、玄関から正式に出迎えられてこそかもしれないからだ。けれども、私は少女がランドセルをベランダに置いたという事実に注目したい。彼女は帰宅するなり、いきなりベランダにやったきた風な意味があるからである。読後の余白こそが、物語に深みをもたらす。
主人公は自宅で仕事をしているらしい若い女性だが、彼女もまた外への行き辛さを物理的に抱えて物語は始まる。夏の暑さ、二日酔い、そして杖。足が不自由と思われる彼女の必需品であろう。説明はされない、読者はただ想像するだけだ。主人公の職業、一人暮らしだけれども気軽に訪ねてくる母親との関係、いつもカーテンを閉めて薄暗い中のパソコン作業、昼夜逆転しているらしい生活、酒好き、ネットとの親和性が高く、アマゾンの注文品が無造作に置かれた机。こうした描写によって徐々に埋められていく主人公の生活様式の一方、隣家の少女は、その服装や態度くらいしか情報がない。主人公を尋ねた母親が、ゲームやらに仲良く興じる少女に怪訝な視線を向けると、虐待の可能性が俄かに立ち上がる。
そうした視線は読者と共有され、少女を無邪気な子どもから、かわいそうという存在に変化させる。少女自身は何も変わっていないのに、周囲の大人の対応によって、如何様にでもラベリングされ、カテゴライズされていく。少女がどんな生活をしているのか、全くわからないのに、読者は、主人公ともその母親とも共犯関係となって少女を知らず追い出してしまう一員に引き込まれるのである。
ベランダの鉢植えに水をやる場面から、それが生長した場面が窺えるけれども、物語はひと夏を描いたに過ぎない。夏休みが終わってこれから秋になっていく、そんな気配を感じさせない緑あふれる風景が描かれ、暑さから主人公の「まだ……夏だ」の「まだ」が説得力を増す。
そしてラスト前の1頁である。少女との交流を期待してアマゾンで購入したマンガの続きと、フリスビーである。主人公はフリスビーをひょいと投げると、ソファーに横たわる。彼女が外の世界へ少女を連れ出そうとしていたと思われ、フリスビーと杖が同じコマに描かれることで、その想いは余計に強まろう。読者に背を向けて眠ろうとする主人公は、むしろ少女が主人公にとって別の国に連れて行ってくれる存在だったのかもしれない。そう考えると、成長したかどうか(もちろん、キャラクターの成長だけが物語の善し悪しを決定するわけではないが、本作は、生長する植物を描くことで、そんな観念を読者に植え付けている)と悩んでいたラストは、はっきりと少女の意志の変化であると理解できる。
少女は別の国からやってきて、主人公を外に連れ出すだろう。「万引き家族」のラスト、少女がちょっと背伸びしてベランダの向こうを見やろうとする、ほんのちょっと希望が「ベランダ」の主人公と少女にも訪れた気がした。
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