「わかさわん」
宝島社「少女ケニヤ」収録
かわかみじゅんこ
私は目が悪いです。視力なんて怖くて測れないくらい悪い。遠くを見るときは自然と目を細めますから、目付きは悪くなって行く一方で、物を見るとき睨むように見詰める癖もつく。だからといって眼鏡もかけず、コンタクトレンズもせず、なんとなく徐々に悪くなっていくような目を今もこうして酷使しています。
「わかさわん」です。主人公は高生三年生の高浜さん、視力検査で眼鏡をかけるように注意されながら、顔の大きさが強調されるを恐れて頑として掛けようとはしません。高浜さんの劣等感であり最大関心事のひとつである小顔に対する執着は一方で「彼氏がいない」という理由に結びついて、思春期特有の不安定な精神状態と絡まって、とっても歪んだ日常を過ごしているようです。「この世の何もかもが、わたしの目の中でゆがむ」というのは、つまり物事を正視できない、物理的に見えないものを見ようとすれば斜視になったり睨むようにしたりするように、その辺の出来事・事件も素直に受け止められない、そういう自分に半分気付いていて嫌悪しているのですが、もう半分でそれを劣等感の責任にして、自分に背負わされる責任の重圧をどうにかやり過ごしているようです、そんな非常に危なっかしい精神状態が、友達の恋人にキスを迫る行為に象徴されるわけです。
で、そのようなおおいに誤解を招きかねないことを求めながら、その友達との関係がこじれることはないだろうと、自分の外見には悲観的であり、自分の周囲の対応には楽観的という、自己中心的な側面もあります。つまり物事を客観視できないということですね、なんでもかんでも自分の持っている貧弱な物差しで全てを推し測ろうとするから、勝手に誤解したり錯覚したり勘違いしたりして、それが間違いだとわかったとしても謝罪の気持ちなんてこれっぽっちもないという身勝手・自己本意、それが元で仮に殴られたり怒られたりしても、自分の物差しの不備を疑わない図々しさと厚顔無恥、自覚なきわがまま・自覚なき無神経・自覚なき、人生・・・。ですが、高浜さんはまだ高校三年生、だから多分大丈夫と楽観できる、自信とは違った、もちろん誇りでもない、単なる若さ。若いというだけで、なんかとんでもないことがやれそうな気がするという思いあがり。
そも、何故他人を求めるのでしょうか。高浜さん曰く、「みんなちゃんと見えてるわけじゃないんだ」。他人の目を頼らないと自分を直視できない臆病者、辛さ・哀しさ・寂しさを厭いながらも他人を求めて止まない自家撞着あるいは病気、自分の目で自分という存在を確認できないもどかしさ又は目の悪さ、みんな自分が見えないんだね。
いろんなことを知っているようで結構知らない知識人、政治や経済になんてまったく無関心だけど最近の流行に敏感な高校生。団塊の世代だからといってみながみな学生運動していたわけじゃないし、女子高生だからといってみんな携帯持っているとは限らないし、根暗だからといってみんなお笑いが嫌いなわけじゃないし、漫画好きだからといって私のような変な考えするのもいるわけで、みんな目がよく見えないから、勝手に想像し思いこんで、しっかり見てもいないのに事実を知ったような気分になって、当たり前という偏見を喋っています。たとえ見ようと努力しても、眼鏡がどうしても必要で、歪んだり色がついたりして見えてしまって、自分のなんという視野のなさに愕然とし絶望し、そうして人々は他人・恋人であったり友達であったり、ひょっとしたらインターネットをする人たちであったり、他人の目だって確かなものではないけれど、不安で仕方ないから、誰かに自分を見てもらわないと不安でどうしようもないから、他人を求めつづけるんだ。
インターネットで友達を求めてうろうろしている人々を私は目撃します。文字によってはっきり見えるその人の意志、「誰かぼくをわたしを見つけて」というまるで迫力のない無感情な叫びです。そんな文句に誰かが応えます、「あなたはどんな人ですか」。その質問に答えるとき、彼は彼女は目を凝らして自分を見詰めるのでしょうか、あらかじめ用意していた演技を披露するのでしょうか、それとも、緘黙するのでしょうか。
目が悪くてよく見えなくたって、高浜さんは胸を張って廊下の真中を歩きます。怖がって隅っこにうずくまることなく、堂々と、よそ見するのは多感な時期だからね、いつか正面見据えて自分を悟る日々に備えて、実像を映さない眼鏡は意地でも掛けないのだ、でもやっぱり劣等感が掛けない理由なのよね、そして、正面ばっかり向いてても横から突っつかれないとも限らないし、やっぱり他人を気にしながら生きていくのかな、自意識過剰に。
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