田中ユタカ「笑うあげは」3巻
キャラクターの目
竹書房 近代麻雀コミックス
麻雀についてほとんど無知な私にとって、麻雀漫画を読む時に感じ面白さの基準は、キャラクターに負うところが大きい。強運だったり拘りだったり、キャラクターによって様々に設定されている麻雀の強さは、私にはあまり理解できず、むしろ「咲」のような異能めいた不可思議な能力のほうがとてもわかりやすかったりする。それでも、麻雀という現実には賭け事という後ろ暗さがまつわる遊びを物語として昇華するには、山場で逆転となる手牌で和了する出来すぎた展開がある程度は必然なのかもしれない。
田中ユタカ「笑うあげは」にも、麻雀の理屈では無知な者には、よくわからない強さが描かれている。配牌が描かれても、それが実際に良い手なのか悪い手なのかもよくわからず、だからキャラクターの捨て牌がどの程度現実的なのかもわからないがために、理牌などの側面から作品について語る力はないけれども、麻雀という舞台設定とキャラクター設定からは語りうる要素が私にもある。
麻雀卓を囲む四人は、互いの表情を窺える程度に近い距離にあり、身体を動かすと言っても上半身が主で、バストショットが多用されることは想像できよう。対面のキャラクターとは対峙しやすい配置であり、隣の席の二人とは、その近さもあってお互いの表情を斜め横から窺えもする。四人はいずれも他の三人の動きを見ることしかできず、相手の手牌に物理的に干渉することはイカサカを除けば当然出来ない。ちょっと手を伸ばせば相手の手牌をひっくり返せる近さでありながら、それが出来ないもどかしさ、もっとも、そのもどかしさと近さも麻雀を他人と打つ楽しみであり、ギャンブル性の所以でもあろう。実際のところは、どんな牌を引くかという運によるところが大きいけれども、物語は、そうした配牌さえも容易に制御することができる。どんなに出来すぎた手牌であっても、現実にあり得なくはない経験が、また魅力なのだろう。荒唐無稽な怪物キャラを野球漫画で設定しても、大谷翔平のような本物の化け物が登場するし、どんなに強すぎる若手棋士を登場させたところで藤井聡太の現実のキャリアには勝てない。それはともかく、麻雀漫画の懐の深さは、それだけで一大ジャンルがなされていることからも察せられよう。
それならば他のジャンルもいいのではないか、と思われるだろう。例えば将棋。将棋は盤を挟んで二人のキャラクターが向かい合うし、麻雀よりも密度の濃い対話が描かれそうだ。だが、麻雀のような運否天賦の要素はほぼない。多くの物語は盤面を過去の棋譜から起こされ、あるいは棋士の監修を受けて制作され、ほとんど先がある程度解析可能な局面である。未知の棋譜を用意しても、AI将棋がプロ棋士を凌駕するほどの強さを持つ現在、たちどころに分析され、物語の一手が是か非か検討されてしまうかもしれない。
実は、これを回避して物語として山場を作った例がある。大友啓史監督の映画「3月のライオン 後編」(2017年公開)である。原作とは異なる結末を、主人公・桐山と後藤との映画オリジナルの対局とし、両者の戦いを盤面の全体像を映さずに描いたのである。棋譜を読み通せなくすることで、映画は極端に狭い範囲の状況を対局の緊張感として演出し、それらをこれまで登場した数多くのキャラクターたちが見守る、という構図を作り上げた。もちろん、プロ棋士を演じるキャラクターもその中にいるわけだが、大勢が決していようとも彼らは最後の一手まで、ほとんど一言も発しない。島田が「大逆転だ」と呟く程度だろう。役者の顔にクロースアップしたカットは、苦悶し頭をかきむしる桐山と平静な様子の後藤を映す。前編の島田と後藤の戦いを受けての表情であるが、まあ詳しい分析は別に譲るとして、ここで重要な点は、後藤が桐山の玉を追い詰めたような局面でありながら、後藤の攻めが途切れ、桐山の反撃というシーンになったところでも、なお盤面全体が映されず、局面の一部だけが切り取られ続けるということである。麻雀で言えば、手牌や捨て牌の一部しか見せずに山場となる物語を進めるようなもので、それでは捨て牌や配牌の妙もないだろう。もちろん麻雀と将棋の違いもあろう。詰将棋なんかは局面の一部だけを抜き出して〇手詰めなんてよくある問題だ。けれども、こうした違和感(少なくとも私はこの盤面全体を映さない映画の演出に大きな違和を感じているし、この映画を評価できない点でもある)は、劇中のプロ棋士でさえ、まるで勝敗が最後まで全く分からないかのような錯覚を観客に与えてしまうし、実際に多くの観客はそう感じて感動を得たことだろう。
麻雀を描くうえでは、そのような「逃げ」の演出が困難である。将棋は近すぎるために、棋士の身体が盤面全体を映すのも邪魔する面がある。けれども麻雀卓は将棋盤のように小さくはないし、身体に隠れてしまうほどの小ささでもない。次はどんな牌が来るのか? この緊張感は、読者・観客を物語から離さず掴むことが出来るサスペンスである。
これと同じ理屈で対峙・対話と次に何が来るかわからないというサスペンスを描いたのが、競技かるたの戦いを描く「ちはやふる」であるが、それはまた別の機会に。
さて、話が逸れたが「笑うあげは」である。
実は、この作品を語る上で欠かすことのできない参考になる作品がある。作者がどのていどその作品を意識していたか、そもそも知っているかどうかさえわからないが、万田邦敏監督の映画「接吻」(2007年公開)である。
孤独な女性が、テレビに映された家族三人を皆殺しにした殺人犯に惹かれ、愛に燃え滾る物語である。主人公の小池栄子は、いまでこそ中堅の女優としてドラマや映画に活躍しているが、公開当時はグラビアから女優に転身して日も浅く、世間的には豊満な胸を強調した写真などの印象もあっただろう。映画は、その小池の胸を必要以上に強調し、まるでグラビア時代に戻さんばかりに、彼女の童顔と大きな胸・バストショットを執拗にカメラで捉える。しかも小池にはTシャツを着せ、スーツや上着で胸の大きさをごまかすような演出もない。観客は否が応でも彼女の達者な演技と同時に、その胸にも目を引かれてしまうことだろう。この映画で果たす小池の胸は、見世物としての小池であり、グラビア時代の彼女の存在感が、映画の顔となって迫力ある演技に繋がっているのである。豊川悦司・仲村トオルというベテランの間を、彼女は見られる存在として振舞い、映画のラストまで、見世物としてのキャラクターを演じきってしまうのである。
「笑うあげは」の主人公のキャラクター設定も同じ構造である。顔、いつも笑っている顔から始まり、笑った顔で各挿話が締めくくられる。彼女は常に見られる存在として、胸元のアクセサリーや、谷間を強調した小池のTシャツほど砕けてはいないが、やはりその大きな胸を隠さずに存在感を露にしている。麻雀卓ではバストショットによって上半身が艶めかしく描かれる。
東という若い雑誌記者の視点から見た挿話が多く、顔と胸元があげはというキャラクターの存在感として屹立している。「接吻」の小池との違いは、彼女が胸によって観客との間に壁を設けてたのに対し、本作は盲目という設定が読者との間に壁として強固に立ちはだかっている。第一話から、目が見えないゆえの麻雀を打つ面白さ、捨て牌を発話によって各人が伝える方法が、彼女を取り巻く麻雀の特殊性で、東からしてみれば、盲人にもかかわらず実際に見えているかのような打ち筋に、ただただ見ることしかできない点が強調されている。
個人的には、やや説教臭い展開に至る挿話もなくはないが、あげはという設定が存分に活かされた挿話ばかりなのは、作者の力量の表れなのだろう。それはそれとして、3巻収載の「世間知らず」が、まさにあげはの存在と語り手としての東の立場が、第一話とともに、もっとも典型的に機能した挿話である。
大学時代の仲間たちと社会人になって数年、久しぶりに卓を囲んだ彼らは、大学時代に各々が個性的な手を打っていたことを懐かしみつつも、今はもう社会人として無難な手を打つようになってしまうことを、どこか寂しくも感じていた。そこに、あげはが登場。楽しく打っている東に吸い寄せられるように卓を囲むことになる。東はじゃんけんに負け、あげはと代わって卓を観察することになった。
この場で特に注視されるのが、南というキャラクターである。東に仕事で何かあったのかと心配される打ちまわしだったが、あげはと卓を同じくすることで変化していく。大学時代のように、熱くなって捨て牌の発声を思わず忘れてしまうほどに。手牌を解説する東と、あげはとの勝負にモノローグが過熱していく南。一方、常に見られ続ける立場のあげはには、一切のモノローグが描かれない。彼女の内面は誰も知るところがないのである。
目が見えない彼女が何を考えているのか。それは誰にも分らない。「接吻」の小池が顔と胸のアンバランスな存在感で観客の感情移入を拒み、まして殺人犯に惹かれてしまうという理解しがたさもあって、小池の存在は、ただただ見つめ続けることしかできなくなり、彼女が次に何をするのかが予想できず、サスペンスチックな状況になっていくように、あげはもまた、何を考えているのか明らかにしないことにより、周囲のキャラクターが常に彼女の手牌を読み、捨て牌から憶測し、存在自体がミステリアスなものとして認識されていく。
盲人の雀士と言えば、個人的に「アカギ」の市川も忘れられない存在である。福本伸行作品に限らないが、モノローグが始まったキャラクターは、相手が何を考えているのかを推測するにあたり、作劇の都合上、どうしても読みが外れる展開が多い。「カイジ」でも、カイジに相対するキャラクター視点の展開になれば、それはすなわちカイジの術中にはまっている、と言ってもよい状態だった。そうしたときに強調されるのが目の描写である。キャラクターを彩るいくつかのパーツの中で最も重要視される目を、しかし、市川はサングラスによって封じていた。あげはに至っては、ずっと目を閉じたままだ。
けれども、市川がアカギと対峙し、市川視点の展開になった途端、市川の目が開くのである。もちろん目は見えない。サングラスの奥にある目が描かれ、市川のモノローグがアカギの手牌を読むのである。
あげは視点の物語が今後描かれないとも限らない以上、彼女も市川のように盲人のままモノローグする展開がないとは断定はできない。けれども、彼女の言葉から、彼女はかつて目が見えており、事故か病気で視力を失ったことがわかっている。もし、過去の彼女が語られるとすれば、きっと彼女の美しい笑顔に彩られた目が、そこに艶やかに描かれ、誰かの視点による物語ではなく、目が見えるあげはの視点によって、過去が明かされるだろう。そうすることで初めて読者は、あげはの内面に感情移入するのである。だが今はまだ、あげはの艶めかしい容姿から繰り出される和了の数々を、笑顔と胸元とともに見つめ続けていたい。
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