高野ひと深「私の少年」5巻
大人ごっこ
講談社 ヤングマガジンコミックス
大人になり切れない妙齢の女性と大人になりたい少年の恋愛とも友情とも親子とも言える交流を描く高野ひと深「私の少年」も5巻に至り、 さらに大きな動きを見せた。これまで言葉として表現することができなかった少年・真修の気持ちが、主人公・聡子に告げられたのである。
東京から仙台に異動させられて二年が経過し、本社に戻ってもいいころ合いではないかと同僚の椎川に言われるも拒んだ彼女だったが、真修との再会により、再び東京暮らしを決意し、真修との関係も含めて新たな生活を始めようとする、そんな流れの5巻である。サッカーを教えていたころのような親切心から高じた真修への思いやりは、勉強の参考書を与えるという立ち位置に変化しているが、真修の母親的に立場が以前よりも明確になっている印象がある。一方の真修は、受験を見据えた同級生たちの恋愛模様を尻目に、その恋心が読者にとっても表情や演出から瞭然と示された。さらに、聡子の妹・真友子が本格的に物語に介入することにより、聡子と真修の関係を変化させるような波乱があるのではないかという期待と不安を予感させる展開や、椎川の再登場による関係の変化も予想され、再び物語は混沌の様相だが、それはそれとして楽しみとし、まず、最初にこの作品を読んだ時の率直な感想を述べよう。
というのも、タイトルを見た瞬間、私はすぐに「私の少女」という2015年公開の韓国映画を連想したからである。もちろんタイトルがたまたま似ていただけで関連性はないが、序盤の展開が似ていることもあり、この映画が物語を読み解くヒントになる気がしたからである。今となっては見当外れではあるが、本題の前に備忘録として記す。
「私の少女」は、田舎の警察署長に左遷されたソウルのエリート警官の主人公の女性が酒浸りの日々の中、その地で薄汚れた少女と出会うところから物語が始まる。少女は父と祖母と暮らし、父は漁港で外国人労働者を雇う仕事に従事していた。粗暴な言動は、少女の身体の様子から虐待を連想させ、少女は逃げるように主人公に懐くようになった。けれども、中盤になって左遷された理由が明らかになる。同性愛者だったのである。たちまち噂は広まり、少女を家に上げたり理由に、性的関係を疑う声まで挙がってくるのだった……
物語はここから観客の予想できない大きな転換を見せ、少女の本当の姿が明らかになっていくのだが、主人公が当初少女に見せていた親切心が、同性愛者であるとわかった途端、周囲の人々にとっては同じ言動にも関わらず性的な関係性が付与されてしまう、この唐突な変化が、「私の少年」においても描かれている。もちろん、それは読者が聡子の本意をどう捉えるかに掛かっているため、一概に言えないのは承知である。けれども、本作の演出は、マンガの特性と相まって、極めて明瞭に、キャラクターの言動を規定しているのである。
1巻31頁
上図は、1巻で同僚の椎川が聡子の腕を掴む場面である。椎川は聡子とかつて交際していた関係で馴れ馴れしく社内でも接しているのだが、この後、椎川は婚約者を聡子に紹介し、二人の関係を変化させようとする意志が明かされるのだが、この腕を掴むという描写が、1巻では対照的に描写され、5巻において異なる意味を持って立ち上がってくるのである。下図である。
1巻153頁
真修が聡子の腕を掴んで、今日のお礼ですとお寿司のストラップを手渡しする場面である。この直前、真修はウサギ小屋の掃除で「普通だよ」と言って優しい態度の同級生の小方を思い出し、聡子の親切も「普通の」優しさなのかと問いかけると、聡子は、こんなことするのは真修だけだよ、と笑いかける。
この場面の違いは、前者が元カレの誘いに何かを期待してしまった聡子の虚しさであり、後者が真修が何かを期待する嬉しさである。同じような場面を対照させることで、聡子と椎川の関係・聡子と真修の関係が簡潔に演出され、印象的な場面として読者の脳裡に刻まれるのである。
けれども、真に対照させるのであれば、後者は聡子の気持ちを描くべきだろうが、ここでは伏せられたままに物語は進んでいく。この時の真修には、母親に対する期待か、小さな恋心のようなものなのか、はっきりしないが確かな愛情が芽生えたのは間違いない。普通ではない対応をしてもらえた、特別な優しさに触れた感情は、年齢的に母の愛なのかもしれないが、その辺が断言できないのが真修の年齢設定であり、聡子との年の差の絶妙な具合である。ともかく、椎川の腕の力には後々、後悔めいた感情に苛立ち自分が情けなく思う場面が続けて描かれる一方で、真修に腕を引っ張られて手に握らされたストラップは、携帯に着けられて何かと気にしてしまう、明白な違いが聡子の表情からも言葉からも窺えるが、彼女自身、この時の感情を実は理解していなかったのである。
論理的にどう解釈すべきか。それが東京を離れて仙台に来てからも答えは保留されたまま、成長した真修と偶然再会したことによって、再びその問いかけが頭をもたげた。改めて、あの時の自分はどんな感情だったのか。
5巻13頁
「大人が未成年をかどわかした」
普通でないこと、真修にだけの特別な言動を、聡子はそう定義づける。それが普通なのだ、と自分を納得させようとするように。自分の腕を抱えるその震えるような手の描写。
1巻と5巻のこの対照は、全く同じ場面が立場が変われば異なる解釈をされてしまう瞬間を活写している。「私の少女」で主人公が体験した世間の目の変化を、読者自身がその世間の目になって二人の関係をカテゴライズする。聡子は、それを忖度したに過ぎない。ショタコンとかありえない年の差恋愛とか、さまざまな言葉が飛び交うだろう。だがそうではない、ただの人間同士の付き合い、世間がどう思おうと「俺と聡子さんは普通だ」と、真修は力強く宣言するのだ。
そうして真修は手を差し伸べると聡子がそっとその手を握り立ち上がるという展開は、言葉ではなく聡子が真修に「普通」ではない感情を抱いた瞬間を描いた。その感情と正面を向き合う前の告白は、衝撃的であり、聡子の本心を読者が垣間見た瞬間でもあった。
さてしかし、引用図の二つには決定的な違いがある。それがマンガの特性としての、右から左へのキャラクターの運動である。どちらも聡子を右側に引っ張るような動きであるが、椎川は聡子を過去に引き戻そうとする、右側への一方的な誘いであり、それでいて自分は婚約から結婚へと聡子を引きずり回すだけである。もっとも、それこそ聡子の想いを自分に向けさせようとする捻くれたやり方なのかもしれないが。
真修の場合は異なっていた。彼は確かにその後、家に向かって帰る。家には育児放棄気味の父親や荒れた部屋が待っている。けれども、仙台で再会したとき、聡子が家に戻ろうとする場面で、真修は下図のように手を伸ばすのである。
4巻11頁
右への運動が過去の自分に向かい、左への運動が未来の自分に向かうというのは、いささか安易な発想ではあるが、本作で描かれているキャラクターの運動は、決定的な場面において、ほぼこれに当てはまると言っても過言ではない。ベンチで告白された聡子と真修の対話は、偶然にもこの右と左の構図に依って描かれた。右手の真修が未来を見詰め、左手の聡子が過去を見詰める。そのトリガーは真修が偶然作った手の痣から連想された虐待疑惑だった。実際には虐待までするような親ではなかったけれども、散らかり放題の真修の家を思い起こし、大人としての振舞いを演じると決めるのである。
5巻170頁
個人的に望むべくは二人が並んで左手を見詰めた明るい未来であるが、大人を演じなければならない聡子の苦悩を思うに、とんでもない問題作に作者は取り組んでいるんだなぁと一読者として無責任に思うのであった。
というわけで、今の聡子と真修には「神田川」でなく、この曲を捧げたい、緑黄色社会「大人ごっこ」。
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