「やさしいからだ」2巻
エンターブレイン ビームコミックス
安永知澄
やっぱ素晴らしい、というか、もう恐ろしいくらいである、安永知澄。
26頁1コマ目。勉強を一緒にやりに来た同級生・歩が秘密を打ち明けて去った後の扉。主人公・夏緒はゲームに夢中でろくに歩の相手も出来なかったけれど、ちょっと押し付けがましい印象と共に、彼女がどこか人を避けている理由がはっきりし、さらにまた、秘密の奇妙さにびっくり呆然として、そんな一瞬を西日と長い影が差し込む室内に留めたまま、余韻十分に無音の扉。特に親しいわけでもなく、むしろ嫌われてもおかしくないようなことをしてしまった夏緒、悪意のある似顔絵に歩は多分トイレで泣いたのだろう。でも何となく一緒に帰ってしまう二人、ぎこちない二人、とても生々しい。途中からやってきた級友は間もなく逃げるように帰ってしまう。作者の感性が恐ろしかった。
夏緒にとっては親友が休んでちょっとつまんない日という程度のものだけど、歩にとっては貴重な日だったことがあのひとコマに詰まっている。ただ一緒に帰るというだけで彼女にとってはリアルな友達景色だった。そして秘密を打ち明けた後も仲良くなるわけではない二人に、余計に恐ろしくなる。期待を微妙に裏切っていく作者の感覚に戦慄する。いや本当に、真面目に。何が上手いかって、歩の感情をひたすら隠し続けていることなんだよ、常に夏緒からの視線によって彼女の情報が伝えられる。扉を見詰めているのは夏緒だけど、歩の感情がそこから湧いてくるような・少なくと歩の残していった表情が見えてくるようなのである。最初の似顔絵からそれは始まっていて、何こんな可愛く描いちゃってる訳? みたいな夏緒の歩への負の感情をそのままにしつつ、だからといって積極的に嫌うわけでもなく、すっきりしないで物語は運ばれるんだけど、あのコマではじめて歩と夏緒の距離を私は実感し、ここから二人の距離が近付くか遠のくかするんだろうと読み進めると、全然相変わらず曖昧で、なんだこりゃとなりかけたところで、この急展開なのだ。歩のとびっきりの笑顔なのである。歩が何を友達だと考えているかわからないという不安がここで一辺に吹っ飛んでいく。自画像どおりのかわいい顔が夏緒の前に現れる。扉から遠ざかっていった彼女が向こうから駆け寄ってくるのだよ、2頁後の1コマ目で。つまり歩を気にしていたのは夏緒よりも読者である私のほうだったのだ。これがちょっと快いショックで、主人公(歩の秘密を知ったところで普段どおりの人)と私(歩の異端性に過度に反応してしまった人)の距離感もまた同時に浮かび上がり、この奇妙な三角関係の中で私は一人で、歩の嬉しさに気付けよバカと夏緒を軽く罵りつつ、それでもやっぱり特に仲良くならない二人に、人と人ってそんなもんだよなとひどく納得してしまう自分がいて、2巻の1話目でもうすでに作者にやられてしまっているのである。この過剰に反応しない作風の落ち着きっぷりが面白い。
で、きっちりと話を構築できる点でも上手い。角沢栄一編がわかりやすい例だ。この三話に渡る挿話の鍵が笑顔である。笑顔つながりで前の話ともつながっているわけだが(1巻第1話からして笑顔の話だったし、作者はなんかこだわりでもあるんかな)、日記の内容とあずみの片思いに目を奪われがちなところを、ラストの結婚式の彼女の笑顔で十重二重に物語全体の内容を包み込んでしまう力に圧倒された。井上の笑顔しか覚えていなかったという角沢は、その後エリと母の確執を目の当たりにし、日記で欠点を指摘されてもわっかんねぇと眉間を押さえる。はっきり言うと彼は表情の上っ面しか見ていなかったということになってしまうんだけど、それは次の井上梓美編で清水があずみの笑顔の写真から裏の表情を読み取ってしまう点と対照を成し、ほんとにうまーく各編が融合されているのだ。だからあずみが清水に惹かれるわけも角沢編があるからこそ生きてくるし、井上編があるからこそ角沢の「俺は何を見てきたんだかなぁ」がもっと深い意味を持って思い出されるのである。そして陸田の言葉で、結局角沢の前では最後まで笑顔しか見せなかったあずみが浮き彫りになってくる。
ひとつの場面が多方面から意味を与えられてくるもんだから、ちょっと意味不明という読者もいるかもしれない。ほら、読者にはやさしくない漫画だからって1巻の感想で書いたでしょ。2巻も変わらなかった、1巻同様によくわかんない話もあるし、真っ当な物語もあれば、奇抜な話もある。いろいろ描ける人だなと面白がっていると、またガツンとやられてしまう。美保五月編のラストでまたショックを受けたのである。
冒頭から食事の場面で、これはもちろんラストを際立たせるためだけど、前回の話とも繋がってて、いろいろと線が用意されている。特に「中絶」という言葉を用いず、それをほのめかす程度の描写に抑えている作者に強いこだわりを感じた(最後のほうの地蔵のコマが堕胎を強く匂わせる場面である)。もちろん前回の高志の言葉があったからこそだが、それにしても他の登場人物にまでそれとそれに準ずる言葉を言わせないまま、子供(あるいは堕ろされた子供)の代名詞に五月の妹の子・そらをもってき、徹底的に言葉を排除することで逆にその言葉を際立たせ、同時に失われた子供への五月の思いというものも色濃くなっていくという作りこみに驚いてしまう。高志の影響で私は孤独になったと悟る五月、堕胎を告げる直前の209頁の場面の彼女の表情が、倉庫だかで妹との幼き日々を回想する表情と交錯する錯覚を受け、まあこれは私の勝手な思い込みに過ぎないんだけど、実際はきちんと分けて描写されているからね、でもなんかこうあの時の表情を思い出している五月の姿が迫ってきて、やっぱり圧倒されてしまうのである。そらを抱きしめて「さみしい人になるなよ」というのも、自分の影響を受けて、今度はそら(当然、それは生まれてくるかもしれなかった自分の子供を意味する)が孤独になるかもしれないことを心配し、影響を与える前にさっさと帰ってしまおうということ。その前に子供の感触を堪能しようという抱擁とキスが五月の孤独を一瞬和らげる・読者にとってもちょっと生き抜ける場面があるから、次で帰ってしまう五月の孤独が強調される効果も生む。さらにバスの中から空を見詰める場面で、名前から顔を想起していた彼女が、空からそらの顔を思い浮かべて微笑するに及びながら、それらが全て「ぐぅぅ」という「腹の虫」に収斂するという素っ気無さにびっくりしたのだ。素晴らしく恐ろしいよ。
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