あずまきよひこ「よつばと!」15巻

よつばと表記ゆれ

メディアワークス 電撃コミックス


 本作も15巻に至って、作品としての強度にますます磨きがかかっている。「あずまんが大王」から引き継がれた演出や技巧は、筆致が細くなっていくことでマンガ記号的な表現が後退し、写実化された背景が浮かび上がり、なによりもキャラクターはどこまでリアルに描けるかに挑んでいるかのように、表情以外の身体や服装が精緻に描かれていく一方で、後退したはずの記号的表現がキャラクターの表情に集中して充実していく。結果的に、物語は日常の景色を写し取るだけで、その場に活き活きと生活しているキャラクターたちの息遣いを読者に届けることになった。
 とはいっても、マンガで最もよく読まれる箇所がセリフであり言葉である点は否めず、結局のところ、読者の印象に残るのは言葉であることが多い。もちろん「よつばと!」世界の住人たちから発せられた言葉だからこそ意味を持つのであって、言葉だけ抜き出してもマンガの面白さは伝わりやしない。
 では、主人公のよつばが発する言葉には、どんな作為や意図があって、作品としてどんな意味が付されているのだろうか。
 よつばの台詞がひらがなやカタカナであることは周知のとおりである。けれども、連載当初は作品の世界観が統一されておらず、前作「あずまんが大王」の世界観を引き継いだ影響が作画に顕著であったが、台詞においても同様であった。分かりやすい変化が単行本につけられる帯である。表紙側の2巻の帯から「ただ、ここにいるだけのしあわせ。」と今に通じる惹句を付けるようになるものの、帯に隠れた部分のよつばの身体が描かれていた。今のように言葉だけが目立つような演出はまだ、なかった。やがて帯に隠れた身体も描かれなくなり、作者の名前と惹句のみ、そして帯の言葉が今の様式に統一されるのは10巻からである。それはともかく、よつばの初期の台詞には作品の強度が定まっていない様子が如実に表れている。
 1巻から3巻まで、よつばの台詞には画数の少ない漢字が使われていた。「人」「姉」「知」「今日」と1話目から、他のキャラクターよりも頻度はかなり少ないながらも、これら漢字が台詞に使われている。小学生に上がる前の子どもという設定への配慮はうかがえるものの、今のひらがなばかりのよつばの台詞の設定は徹底されていない。
3巻71頁
 上図は3巻71頁目より。第17話時点でも漢字の台詞があるが、これ以降「赤」はひらがな表記となっている(それだけにこの引用図の「赤」表記の特殊性が際立つ)。前述した「人」は「ひと」、「知」は「し」、「今日」は「きょう」というふうに、今となってはひらがな表記が当たり前だ。また「病気」を「ビョーキ」と表記しているが、これも台詞の設定が定まっていない・つまり、ひらがなとカタカナの区別がはっきりしていない時期の演出例である。
4巻12頁
 これは4巻12頁の例。3巻で恵那や風香とバトミントンをしていたよつばは、ラケットを借りており、それを見つけたジャンボに自慢げに「ばとみんとん」と応える、第22話だ。ひらがなの統一はなされているが、カタカナとのバランスは、まだはっきりしていない。おそらく、このやり取りが最近の連載であれば「バトミントン」と表記されていただろう。
 第24話では、了解を意味する言葉「らじゃー」が「ラジャー」と表記されたりと、統一されていない例があり、ひらがな表記は20話前後で設定として固められたものの、では、どういうときにひらがなで、どのようなときにカタカナなのかは定まっていない。
 さてしかし、そもそもそんな区別があるのかと思われるかもしれないが、最近の本作は意図をもって区別されていると考えられる。その典型例が、7巻収載の第42話「よつばとでんわ」回で描かれた。
7巻23頁
 7巻23頁。糸電話で遊んだ後、よつばは、あさぎからメールになって写真を添付(背中に貼られて)され、とーちゃんの下に駆けつける。「めーる?」というよつばの台詞は、その言葉の意味を理解することで、
7巻23頁
「メールわかった」と「めーる」をカタカナで言うのである。カタカナ言葉の意味が理解できないよつばにとって、カタカナとひらがなの区別はつかないが、説明を聞いて理解すると、カタカナによって正しく表記され、よつばの顔文字がほほえましい場面として描かれる。
 だからといって、カタカナ言葉をカタカナで言えば理解したと判断するのは早計だろう。そのような区別が、よつばの台詞を形成するうえで慎重に選択されていることは疑いない。6巻収載の第35話「よつばとリサイクル」では、よつばは終始「りさいくる」と発話している。「リサイクル」ではない。結果、よつばは綾瀬家から集めた不要なものを全身に張り付けて、得意げにとーちゃんの前に披露する。つまり、理解したつもりの言葉を、よつばは本当は理解していなかったということである。
 とはいうものの、8巻の文化祭の回では、初めて見たクレープに「クレープってなんだ?」という台詞があり、よつばと言葉の設定は、非常に危うい状態であったと思われる。
 9巻でジュラルミンことテディーベアを購入する場面では、よつばはテディーベアを「ベリーゲラ」と正確に発話出来ない様子が描かれているが、カタカナ表記である。
 知らない言葉はひらがな表記、(カタカナ言葉に限るけれども)理解することでカタカナ表記になる。これは、本作に限らない、キャラクターが言葉を理解したかどうかを表情や背景などの絵としての情報以外に文字情報で読者に伝える、ひとつの手段である。
14巻82頁
 14巻89頁、第94話で、虎子によつばがとーちゃんの妹「こはるこ」の名を挙げる場面では、虎子は図の通り「こはるこ?」とひらがな表記で復唱すると、「…」とちょっと考えてそれが人の名前であることを理解し、想定される漢字で「小春子さん?」と発話する。同じ「こはるこ」であるが、ひらがなと漢字の表記違いにより、言葉面以外に潜む意味を伝えている。
 よつばはまだ漢字は読めず、書かれた文字を読むときは漢字を飛ばして読んでいる場面がいくつか描かれているが、いずれ漢字を覚えていくだろう。その過程で、覚えた漢字が台詞として発せられるのは間違いない。とはいえ、それはまだ先の話だ。もう少し、よつばとひらがな・カタカナの関係性を探っていこう。
12巻67頁
 12巻67頁。とーちゃんと買い物に来たよつばが「セロリ」を手に取り、次のこの引用図のコマで文字を見詰め「セロリ」と発話する。よつばはカタカナが読めることがわかるが、次のコマで「セロリってなに?」と聞く場面があることから、カタカナ表記だったとしても、意味まで理解しているわけではない。
10巻79頁
 10巻79頁、ジャンボと動物図鑑を見る場面で、よつばはチーターの文字を見つける。前述通りであればカタカナは読めるはずだが、「ちーたー」と理解しないで読んでいることがわかる。そして「チーターしってる!」とカタカナ表記で、知っていたことが文字でも表現される。10巻以降から世界観が統一されたことは帯の統一感から察せられるが、よつばの言葉の表記はまだ一定していないものの、演出の一環としてひらがなかカタカナが選択されていると思われる例である。
 よつばは、図鑑や絵本をよく読んでいて、14巻では「コバルトヤドクガエル」「ナマクワアマガエル」なるジャンボも知らない種類のカエル名を連呼する。あるいは15巻で絵の具を買う場面では、「エメラルドグリーン」と連呼して、その色の絵の具を欲しがる。今のよつばにとってカタカナは漢字のようなものなのかもしれない。新しく覚えた言葉を使いたくて仕方ない様子がうかがえる。
 では、ひらがなの効果はいかほどだろうか。
15巻115頁
 15巻115頁で風香としまうーと試験勉強にお邪魔したよつばは、お菓子を頂戴しながら、そもそも試験勉強を理解していないという展開である。同じような展開は9巻の気球に行く話でも描かれた。
 あさぎが気球に行くと発表すると、恵那が少し興奮気味に「あの空飛ぶ気球?」と聞き、あさぎが首肯するも、よつばは「ヒントだして!」と気球を理解していない様子がほほえましいやり取りの挿話がある。あさぎと恵那が計画を進める中、よつばはまだ理解できず「ききゅうってなに?」と恵那に聞くのである。さらに、気球大会の現地に到着しても何しに来たかいまいちはっきりせず、気球が膨らむ場面に遭遇しても「なんだこれはー」と指さす始末で、「ききゅう」という発話だけが独り歩きして、よつばの中で言葉と実物・出来事がまったく結びついていない。やがて次に気球を膨らませる場面に遭遇すると「またききゅうつくってる!」と、ようやくはっきりと理解したことが描かれる。「また」と言っていることから、ひょっとしたら最初に気球が膨らむ場面で実は理解していたのかもしれないとも思われるが、よつばの内面がほとんど描かれない本作では、ひらがな表記だけでよつばの内面を読み取るのは限界があろう。
 絵の具を買いに行く挿話でも、どこに売っているかよつばが訪ねると、とーちゃんは「画材店や文具店」と応えるも、よつばの本当の関心事は売っている場所ではなく、買ってもらえるかどうかであるため、よつばはとーちゃんの言葉を理解していないか、聞いていない。実際に買いに行ける段になって、よつばは先の質問を忘れているのだろうか、どこに買いに行くのか「なに屋さん?」と聞く。お店であることは何となく覚えていたのだろうか。「画材店」という言葉に、「ガザイテン」と反応するが、おそらく言葉の意味は理解していない。「ききゅう」と同様の事例である。
15巻149頁
 よつばは、とーちゃんが用意した自作の本で「らんどせる」とひらがなで書いた。タイトルやよつばの台詞は「ランドセル」であり、ランドセルとはなにかは理解しているけれども、書くことはできない(タイトルで言うと、風香・しまうーとケーキを作る回は「ぱてしえ」とひらがな表記となっているが、もちろん風香たちは「パティシエ」であることは理解している。タイトルがよつば語に寄った例もあるのだ)。
 国立国語研究所のかなり古い調査では、5歳児のカタカナの読み書き能力は、児童41名という少ない調査数で参考にならない例ではあるが、就学前の2月の調査で約93%の児童が読めて、約50%の児童が書けるという。個人差がかなり大きく、またこれらの個人差は小学校就学後、二年生くらいまでの間に、ほとんど無くなっているという(もっとも、こういう調査は地域差や親の収入や職業などのさまざな要因も考慮しなければならないので、まったく一般的な数値ではないことを研究所も承知しており、あくまでも参考にならない例である点を強調しているし、濁音なども含めたカタカナを何文字読めれば読めたと判断し、同様に書けると判断できるのかは、議論の余地があろう)から、よつばがカタカナを書けない点を心配する必要は全くないのだが、そろそろよつばにちょっとくらいカタカナ書かせてもいいんでないの?と思わないでもないけれども、まったくの余計なお世話である。
 よつばの理解度を示す指標として、カタカナ言葉に限って、ひらがな言葉とカタカナ言葉が機能している節はあるが、完全ではない。これが「よつばと!」のよつば語と呼べる作品内のささやかなルールである。

(2021.6.8)
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