「雪の峠」

講談社 KCデラックス「雪の峠・剣の舞」より

岩明均



 歴史作品と銘打たれているが、ひとつの作品として優れた完成形である。絶妙な構成、緻密に張り巡らされた伏線、冷たい描線が抑えた演出につながり、時折見られるすっとぼけた台詞・表情が漫画を読んでいるという安心感を読者に与え、締めくくり方の神業はほとんど奇跡に近い。重層する主題と確たる土台の元に展開される物語は、何度読んでも飽きないどころか読むたびに面白さが深まり、まさに至福、傑作である、何度も言う、傑作である。
 物語は、十七世紀初頭・戦国時代から江戸時代の過渡期を背景に、戦国大名・佐竹家内部の確執を府(本城)の築城場所を巡る討議のなかで丁寧に綴っている。中心は主人公・渋江政光(内膳)と梶原政景(美濃守)の脳みそが震える智略戦で、新旧世代の対立が「峠」を鍵に恐ろしく静かな筆致で描かれている。しかも史実に振り回されることなく、おのれの物語作家として独自性を存分に発揮し、岩明にかかれば史実やその逸話さえも岩明節に取り込まれてしまう構成は、「寄生獣」が色褪せてみえるほどだ。
 どこが素晴らしいのか例に挙げよう。まず、第一話の上杉謙信の逸話をみよう。作品を貫く「峠」がここで提示され、後々の展開に大きな影響力を持つことは自明、ひいては内膳と戦う美濃守の行動の動機付けをこの数頁で確かな説得力で描き、かの人物たちの素性(人生)を知らずとも、この作品の中だけでもって老いた武将と新時代の武将の考え方の相違をわかりやすく説明してしまうのだから恐れ入る。劇中の逸話は、謙信の関東での活躍を中心に書かれた「松隣夜話」に詳しい。太田資正に請われて救援に駆けつけた謙信は、松山城陥落の報に激怒し資正を手討ちにせん勢いで迫った、資正は騒がずに弁明の余地なきを申し開き関東での上杉軍の軍備補充を約束した、そして松山城将の子を見て「謙信席を立ち給ひ、二人の童子の長き髪を、左の手に握り、中に提げ、右の手にて即ち刀を抜き、両人を一打に四つに斬りて投捨て」たとあり、本編20・21頁はこの文章どおり描かれていることがわかる。この逸話が示すところは、その後の老臣たちの会話から察せられるように謙信の態度に注目しがちだ。それを承知している作者は第二話冒頭で再び謙信を登場させ、重点は落ちた城にあることを読者に仕向ける。さりげない親切な描写は心憎い演出である、すなわち、義宣・内膳の窪田案に対抗して美濃守が喧嘩腰で論じる金沢案がそれである。美濃守にとって松山城陥落と続く謙信の態度は教訓となっていたわけであり、救援なくとも長期篭城可能で堅固な城を築くことは生涯の理想であったに相違ない。しかも老臣たちの戦国への郷愁を煽動して場を金沢案に傾ける戦略のしたたかさは多いに納得、主人公よりも克明な輪郭を持つ登場人物たる美濃守だからこそできる演出といえよう。「寄生獣」の後書きで物語の作り方を「まず「出来事」が存在し、次にそれに対峙する「登場人物」たちを配置してゆく」と書いているが、下手をすると物語ばかりが先行して主役たちを置き去りにしてしまう作り方も、たったひとり強烈な印象を与える人物を配するだけで出来事が引き締まってしまう筆力も素晴らしい。そもそも過去の出来事ゆえに登場人物は既に配置されているのである、にもかかわらず輝く美濃守という人物は、後に主人公さえ個性的な人物へと導いていくのだから、一体この演出の巧みさはどうだ、史実という枠組みは物語作家にとって足枷になりかねないものを、岩明均は謙信の逸話を利用して実在の人物の言動に物語にとっての意味を与えてしまったのだ。佐竹家内の対立と謙信を結びつける着眼点! 構成力! さらに美濃守が戦をしていることを察した穏やかな隠居爺といった風情の義重がとっさに切り出した横手案、鬼義重の面目躍如だ。人物の配置が絶妙過ぎる。
 次に107頁の場面を見てみると、作品の奥行きが増すはずだ。5コマ目「雪で峠が通れなくなる」の一言は美濃守だけでなく読者までをも騙してしまう先入観を刻み込む秀逸さだ。次の頁で不可解な表情をみせる使者も伏線になっている(彼が江戸まで行くわけではない、書状は駅伝よろしく届けるし、帰路は風任せ)のだから、精緻で幾重もある伏線は再読にもってこいだし言うことなし。馬を継いでたった三日で江戸に書状を届ける速さの理由がこのあたり(特に99・100頁)に詰まっていて、それが家康と正信によって明されて読者に「陸路」をさらに意識させる作者の周到さ。常に読者を意識しながら、なお自分の創作方法を崩さない作者の力量をここに垣間見た。ちなみに伝馬制度(街道の各所に宿駅を設けて情報網を整備した)を全国的に展開したのは家康だが、伝馬そのものは戦国時代から実施している武将がいて、美濃守の父・資正もそのひとりである、父にしたがって転戦した美濃守が伝馬を知らないはずがなく、書状の日付に真っ先に疑念を抱くだろう彼の陸路に固執する態度を内膳は計算していた(考え過ぎだって)。こうした内膳の戦略が主人たる義宣の心情さえ動かすのだからたいしたものだ(当然作者の構成が)。「つまらぬ海」と呟く義宣を終盤に「海のそばもなかなか捨てたものではあるまい」と言わしめる。誉めるしかない。
 その一方で、物足りない描写がないわけではないのでそれについても述べよう。それは「米」である、巻末の登場人物紹介で内膳が検地に長けていることが明かされるが、作品中ではわずかに妻の口を借りて語られるのみで未消化のまま、本編とさしてつながりがない。もちろん渋江政光という人物について知っている人ならば、81頁から86頁の場面ににやけてしまうだろう、いうなれば歴史好きのみに向けられた狭量なサービスなのだ。これはちょっと史実にこだわりすぎたところかもしれない(なお、「渋江田法」の虚実について確たる資料はないが、内膳が久保田藩の検地に力を尽くしたのは間違いないらしい)。他に139頁4コマ目、内膳の妻の台詞も劇中ではさして生かされていない(もっとも、美濃守との智略戦を指して言ったのかもしれないが)。前述同様に彼のその後の生涯と死を知るもののみが心打たれる場面だろう。
 こうして考えるとこの作品は、やはり歴史物である。数学と聞いて拒絶反応を起こす人がいるように、歴史と聞けばたとえ漫画好きでも拒絶する人がいるかもしれないが、そんなことでこの傑作を読み逃してほしくない。歴史愛好家から見ればいささか穿ちすぎており、奇説を前面に押し出した時代小説まがいの、これを史実と思うなよと触れ回る者が出てくる内容かもしれない。しかし、明らかに歴史作品である。172・173頁の見開きが全てだ、この一コマでこれは歴史物という一面からも評価できる作品に仕上がったのだ、過去と現在のつながりを意識してこそ歴史であり、未来を築く意志こそ歴史を創る原動力なのである。
 第四話、関が原の合戦・国替えという峠を悶々としたまま越えた老臣たちは過去にこだわり続けていた、彼らは自らを三国峠を越えた謙信になぞらえたはずだが……幼子二人を斬殺した謙信はなお腹立ち紛れず、北条方に傾斜している騎西(山の根)城を蹂躙、城に篭もる者ども約三千人をことごとく殺害した、「凡そ開闢以来、是程の仕課せたる軍を、未だ聞かず」、上杉軍の倍の軍勢だった武田・北条軍は追撃すらできなかったという。さてしかし、峠の先でそんな気迫なんてもち合わせていない老臣たちを待っていたものは義宣のけじめだったのだ。
 渋江内膳は大坂冬の陣で侍大将として佐竹軍の一翼を担うも豊臣方・木村重成率いる鉄砲隊の攻撃を受けて被弾、戦死した。

(参考文献/渡部景一「佐竹氏物語」無明舎1980/渡部景一「「梅津政景日記」読本」無明舎1982/渡部景一「久保田城ものがたり」無明舎1989/井上鋭夫(校注者)「上杉史資料(下)」新人物往来社1967/E.H.カー「歴史とはなにか」清水幾太郎訳 岩波新書1962)


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