余白の発見



 えー、マンガの歴史とか起源の話になると、たいてい何やら戯画とか江戸の何々本とかの解説から始まるわけで、それがコマで囲まれて、コマが順番に並べられて読んでいくって過程を経て、今のマンガの形式が成立したっていう大雑把な説明がある。でも従来のこの話には腑に落ちない点があって、それが、そもそもコマがあることを前提としているってことである。もはや疑問にすら思わないコマの存在。だけど、少女漫画を読むと、コマ枠なんだがはっきりしない線で区切られた、コマ構成と呼べるのかもはっきりしない表現を目の当たりにする。そもそもコマがあるってこと自体がマンガにとって表現を押し込めていなくもないと感じてしまう。コマがあって、その中にキャラクターが描かれ、フキダシがあって背景があって……コマの中に物語世界が全部詰まっているってのは本当だろうか。
 伊藤剛「テヅカ・イズ・デッド」で提起された「フレームの不確定性」は、コマだけではなく、紙面全体を構成するための言葉として登場した。夏目房之介がすでに「多層的なコマ構成」として論じ、少女漫画の特異性を炙り出したが、伊藤はさらにこれを押し進めてマンガ全般に論じうる可能性を示唆した。ここでは、それらの先行研究を受け、今度は逆説的に、余白について考えてみようと思う。

1 間白の抑圧
 新聞連載の4コママンガは、広い紙面の隅っこにいつもある。4つのコマが他のいろんな活字の記事とかとは異世界の存在として、ぽつんとある。それを見て読者は、4コママンガを認識する。コマ枠があるから、すぐに「あっ、マンガだ」と見つけられる。マンガを読まない人だって、それが枠に囲まれた他の記事とは違う何かだってわかる。実にありがたいことだ。では、広い紙面の中にある4コマにとって、余白はなんだろうか。周辺の白いところだけか。とあえず視界に入る面か。それとも紙面全体か。
 連載がまとめられて単行本になった時、読者はそこでようやく安定した余白を手に入れる。周囲の記事に惑わされることなく、コマだけを見つめることが出来る。……という心理があるとすれば、新聞記事も余白の一部と考えられないことはない、というのはちょっと無理があるかもしれないから、雑誌でもいいだろう。雑誌の余白(柱と呼ばれるところ)にはコミックの広告や編集者や読者または作者のコメントが入ることだってある。でも単行本化されたときには消えている。作品とは無関係のそれらが余白にあるということは、余白は作品と無関係と判断されていることになるのだろうか。もしそうであるならば、単行本化したときに今度は違う広告でも入れればいいだろう。刷り直すたびに広告入れておけば広告費頂けて大もうけ! なんてことにはならない。つまり余白も作品の一部ということなのだろうか。
 余白に何かがあろうが、当然のように読者はコマを追ってマンガを読んだと思っている。いや実際そうなんだけど、個人的に雑誌掲載時と単行本化された時、同じ作品なのに印象が違うってことがある。たとえば手塚治虫の作品は死後に雑誌が出たことがしばしばあったし、復刻されることもあって、先に単行本を読んでから雑誌を読むなんて機会に遭遇したことがある。雑誌には当然広告があるんだが、単行本と印象が違った。目移りする、そりゃ広告だから。だからコマを追うことに集中する。集中すればするほど、紙面周辺の余白は気にならなくなっていく。それでも時折広告が目に入る。
 コマの起源なんて知らないけど、コマ枠が出来たことで余白が出来たのか、余白に広告を入れるためにコマ枠が出来たのか、昔のマンガを読むと、コマの中には絵が描いてあるだけで、セリフはコマ枠の横に添えてあるなんてのもあるわけで、もし絵の説明文を入れるために余白を設けたとしたら、その余白も作品の一部ということになるだろう。だが、いつの間にか言葉はフキダシに囲まれてコマの中に入り、余白だけが残ったとしたら、その余白はいまだにコマの一部なのだろうか。  夏目房之介が言うところの間白が、余白の一部である。コマとコマの隙間・溝とでも言おうか、その間隔は、作者によってまちまちであるが、ほとんど固定されている。そこで、今度は間白を利用した表現が登場する。
 「間白という言葉でコマの隙間をとらえなおすと、面白いことがわかってます。コマ構成全体をコマの隙間、空白の側からみなおすことができるのです。」(夏目房之介「マンガはなぜ面白いのか」NHKライブラリー1997より)
 夏目の指摘によって浮上した間白は、しかし、間白と呼ばれる以前から存在していたわけで、昔の手塚マンガを引用するまでもなく、壁と見立ててぶつかったり突き破ったりと、コマとコマの隙間にも意味があった。間白への関心は、コマの中のキャラクターにとっても、読者にとっても、平面世界のお遊びであることが前提で、上下左右からの接触が主であったけれども、さらに発展して、間白にぶらさがったキャラクターが登場すると、間白によって隠れされた腕が、俄かに画面を立体化したのである。奥行きの獲得である。
志村貴子「放浪息子」6巻 エンターブレイン  私たちが日常で絵なり写真なりで物体を見るとき、物の陰になったり人の陰になったりして見えない部分があったとしても、物体がその奥にあると解釈する当然の働きがある、陰になっている部分で切断されているとは思わない。間白によって切られた物体が描かれていたとしても・コマごとに分断されていても、繋がっているように見えれば、それはひとつの物体として解釈されるのは、やはり当然である。物体を遮るものと陰になった部分にも、空間を感じるのだ。これは、消失点による遠近法を待たず、私たちが平面から感じることができる立体的な視覚である。錯視の例を出すまでもなく、私たちの視覚は元からあらゆるものを・たとえ平面に描かれていると理解していても立体視する傾向が強いからだ。
 だが、「間白」と名付けられることで、その隙間は、たちまち平面に帰してしまった。少なくとも平面化した感がある。「多層化」という言葉により、平面が重なっているという感覚も生じる(夏目はこれをアニメのセル画にたとえてもいる)。元から立体化されていた画面は、マンガが平面であることを殊更強調してしまったがために、隠蔽されてしまったのである。

2 余白の喪失
 間白はしかし、さらなる飛躍を目指した。断ち切りである。
 断ち切りは、紙面一杯にまでコマ枠を伸ばして外縁の余白まで消し去り、あたかも紙面そのものがコマ枠の一部であるかのような錯覚をもたらした。従来、製本の裁断の段階で心配されることのなかった外縁の余白が、断ち切りによって、断ち切りは原稿の何ミリまで、というような規定まで設けられた。表現の一手段として容認された断ち切りは、しばしばノンブルわかんねーよ、と一部に不満を与えつつも、迫力ある演出や画面の開放感などに利用され、余白は文字通り断ち切られる存在になってしまう。紙面の縁とコマの隙間さえもが、間白と呼んでも差し支えないものになったのだ。余白の喪失である。
 一方、間白に支えられたコマは、その描写の精緻を極めていく。写真の流用、立体的な建造物、劇画的表現、情報量を増やすことで、コマの中の物語を際立たせていくことになる。青年漫画を中心にして進行した劇画化は、間白を独立させることにもなった。大友克洋の「童夢」「AKIRA」がわかりやすい例だが、手塚が描いたコマ枠の遊びは手塚自身描かなくなっていき、コマはコマとして自立し、間白が間白として自立した。
 この「間白」の命名が1990年代の話。その時にはすでに紙面の構成要素は、コマと間白しかないような事態になっていたのであるが、もちろん間白と名付けられたことに起因している。前述の通り、物を重ねて描くということが、実は空間演出の一例であった。描き手がそのことにどれほど自覚的であったかは不明だが、少なくとも間白にぶら下がる遊びをした手塚は意識していただろう。もちろん、「ぶら下がっている」ことを発見する夏目を含めた読み手も、無意識裡でそれを知覚しているが、表現論に押し込める手法として、紙面は平面の重なりとして解釈され、幸か不幸か、その論は広く受け入れられたのだった。
 夏目の理論を発展させたものが、伊藤剛の「フレームの不確定性」である。これによって紙面全体が、フレームの枠に落とし込まれることになる。フレームという言葉には、映画理論を援用する意図があると思うが、「コマ」と「紙面」のどちらに主があるか確定できないマンガ表現の特性を説明するために作られたこの言葉は、「間白」という言葉の呪縛同様に、マンガがまさに描かれている紙面そのものを、一種映画のスクリーン・やはり平面に帰してしまった。伊藤は、おそらく自身のマンガ経験から、ネームの重要性を描かない者よりは知っている自負があるだろう。だからこそ、漫画家としてネーム作りの苦労を知りながらコマをバラバラに解体した夏目の表現論に一定の評価をしつつも批判し、同時に、ページ(紙面あるいは見開き)単位でコマを構成していくネームという作業こそ肝要と、「フレームの不確定性」でもって紙面への回帰を企図したわけである(なんちて)。
 紙面への着目がさてしかし、余白が復活したわけではないし、復活しなければならないわけでもない。「テヅカ・イズ・デッド」は、「キャラ/キャラクター理論」が注視され、「フレームの不確定性」はその評価を留保されている。コマ・間白・紙面は、実に宙ぶらりんな状態で浮遊した格好になった。映画理論を導入することで、それでは説明できない事実を浮上させ、そこにマンガ独特の表現を見つけようと試みたこの理論は、夏目が提唱した(と思われる)「視線誘導」を補完する結果となり、またしても平面の罠にとらわれてしまう。
 「視線誘導」とは、読者の視線をフキダシの位置や、コマの構図などで誘導することで、描き手が特に見せたい絵をそれと知られず読者に見せる・読ませる技術である。視線は当然紙面の上を這うように移動する、二次元の運動である。だけれども、その軌跡は当初から二次元のものとして記録されている。読者が絵から感じた遠近感の程度とか、スピード感・力強さは記録されない。
 これらの用語を知らずとも、私たちは漫画について語る時・特にその技術について語る時に、リアリティがいかに二次元で表現されているか、というマンガメディアの特性を意識した言説に陥る。その特性は事実ではあるが、一方で読者が実際に感じているだろう立体感や空間とか臨場感は(主観的という理由で)無視した。絵が上手いかどうか、構図が巧みかどうか、キャラクターが立っているかどうか、ストーリーの展開に意外性があるかどうか……描線やセリフやモノローグといった目に見えてはっきりしているものだけが、語られる対象になった。余白が間白に取って代わられていったように、読者の感動は、技術の評価に還元されていった。素直な感想は共感こそ得れ、価値は得られなかった。私たちの知覚は、語られることも少なく、その言葉さえ与えられていないけど、言語化できないからといって存在しないわけではない。それでは、どこに存在しているというのだろうか。

3 余白の回復
 映画を観るとき、臨場感を最も得られる適切な鑑賞位置があるという。それは多分に視野角によるところが大きく、そこに座った観客は、スクリーンに映される出来事に没入しやすい。
 マンガにも適切な読み(視点)位置なるものがあるだろうか。多分ない。読者がどんな格好で読んでいるかまでは作り手は映画ほど制御できない。では、臨場感を醸すための一般的な技術は何があるかと問えば、おそらく断ち切りを使った大ゴマの演出と答えよう。余白を切り捨てるわけである。これはスクリーンに臨場感を感じる観客がスクリーン以外の部分が見えない(実際は目に映っても意識していないので知覚出来ない)現象を、コマを紙面一杯にまで引き伸ばすことで表現していると言えなくもない。
 コマを大きくしたり、断ち切りを用いることによってコマ枠による囲みからキャラクターは解放された。だがリスクも伴う。遠近感の表現が難しくなるのだ。
 2つのコマが同じ大きさで並んでいた時、1コマ目で中央に描かれているキャラクターが、2コマ目で中央のままさらに大きく描かれていたとする。どちらも同じアングルである。この時、キャラクターが近づいてきた(あるいはキャラクターを映す・見つめるカメラが近づいた)という知覚を得やすいか、キャラクターが大きくなったと知覚するかは、コマ枠によって制御される面がある(当然キャラクターが突然大きくなることがないとわかっている場合は、より前者の知覚を得やすい)。キャラクターが近づいたか大きくなったかを識別させるために、普通はキャラクターと相対化できる背景を描くだろう。これはコマが大きくなればなるほど・さらに断ち切りがあると、どちらか判断できないからである。そのような混乱を避けるうえでも、欠かせない描写だ。ところが、コマが小さく間白があると、コマ枠そのものが相対化されて背景であるかのような錯覚をきたし、近づいたという知覚を得やすい。これは平面上で遠近感を容易く得るための消失点が、コマの中央にあるために起きる現象である。映画のスクリーンでこのようなことをすると、マンガのようなコマ枠・間白がないために近づいたのか大きくなったのかわからない混乱を与えかねないので、消失点が中央に来ないよう避けるのが一般的である(最近の映画だと「どろろ」がある。妖怪との戦いの一場面で消失点を中央に置いたために、近づいたか大きくなったかわからないという混乱があった。消失点を中央から少し逸らすだけで、この混乱は避けられる。また、正面から近づいてくる人物のカットがあるとしても、スクリーンからはみ出すほど大きく映されると、大きくなり、かつ近づいたと知覚されやすい。これはスクリーンの外枠が意識されたことによる。コマ枠と同様の効果があるわけだ)。コマ枠は、遠近感を制御する一翼を担っていたのである。大ゴマの多用が精緻な描写を増やした一因に挙げられるだろう。
鈴木ジュリエッタ「カラクリオデット」2巻 白泉社  少女漫画がコマ枠の省略や間白を埋めてまで描けることが出来るのも、この混乱を上手く利用しているといえるかもしれない。っていうか、そもそも遠近感を必要としていない場合が多いだろう。内面描写を多用することで、つまりモノローグを読ませることでキャラクターの心理と共鳴して虚構の世界に没入した読者にとって、物理的な背景は現実感を喚起させるだけの邪魔者にしかすぎない。ここで相対化されるべき距離は、キャラクターの心理と読者の心理であり、それには消失点なんぞ必要ない。
 だが、余白は失われたわけではない。少女漫画は、間を作るための演出として空白を作ったのである。何も描かれていない空白を「描く」ことで、間白をコマの中に取り込んだのだ。劇画でも同様の演出が行われている。緻密な背景を描きつつ、心理描写のコマにおいて背景を消し、白い空間・余白としてキャラクターの内面に迫る描写が見られるようになった。情報の落差によって読者が見ているもの・読みとるものを制御する技術の一例である。描き込みが増えれば情報量が増える、だが読者が1コマから得る情報量には限界がある。 宮下英樹「センゴク」12巻 講談社 あえて情報量を増やすことで、何が描かれているかを出来るだけ多くの読者に伝える方法もあるだろう。一方で、少ない情報量を読者に確実に読み取らせるような方法もある。余白は、後者の演出において絶大な効果を発揮するのである。
 余白の活用までに至る変化は、もちろん一様に起こっているわけではない。四角四面なコマ構成の作家、断ち切りを多用する作家、間白のないコマ構成をする作家……実に様々だ。「多層的なコマ構成」、「フレームの不確定性」と、コマの分析・批評は映画理論を取り込み吸収しつつ発展しているかのように見えるが、今一度ここで、描かれていない空間に目を向けて、そこを読んで欲しい。その空白には、キャラクターや読者の絵・言葉に出来ない感情が存在し、描かれているかもしれない。
(2007.3.12。「余白の発見その2」に続くよ)
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