志村貴子「放浪息子」9巻 目を閉じる

エンターブレイン ビームコミックス



 目を閉じると何も見えない。マンガの場合、コマの中が黒く塗りつぶされ、そこにモノローグやフキダシが入るなんて演出をよく見かける。直感的でわかりやすい表現だからこそ、読者も納得がいく流れだ。「放浪息子」でも、この表現はふんだんに盛り込まれている。
8巻184頁
図1 8巻184頁

 床についたシュウが目を閉じる。次にコマが黒く塗りつぶされてモノローグが被さる。「どきどきするけど もう決めた」。8巻にある一場面だ。腐れ縁とも言える小学生からの級友・土居に「おまえ これ(女装)で学校来いよ」と煽られるように、女装して登校する決意を固める重要なところでもある。それを普通のコマ割で淡々と演出してしまうのが志村マンガの味のひとつなわけだが、次頁の朝の描写もあわせて、コマのつながりが自然すぎるほど自然な流れだろう。そして、同時にキャラクターの心理に一気に接近できる演出でもある。
 図1の1コマ目もシュウのモノローグだが、ここには机に座るキャラクターも描かれている。目を閉じているが否かは断言できずとも、回想していることは明白だ。コマをベタで塗りつぶすことで、目の前の限られた空間・限られた情報しか捉えられない描写から、何物をも見通すことのできる情報の量れない描写になった。シュウが過去の自分の姿からその時の発言を思い起こしているのだから、情報は時間にも囚われないということになるだろう。
9巻85頁
9巻85頁

 もちろん、同じベタ塗りのコマでも意味合いが違うのは情報とそれを受けとる読者の意識によっている。以前、田中ユタカ「愛人[AI-REN](拝啓手塚治虫様第15回)を例に真っ黒なコマの言葉と読者について触れたけれども、「愛人[AI-REN]」の場合は、コマ枠も錯綜し、目が見えない状況から生じるだろう何かしらの心理が訴えられていた。だが、志村マンガは往々にしてコマ枠はいたって普通の直線である。斜線も少ないし、それが淡々とした物語の印象を強めているし、枠線が交差して物語の時間の流れを惑わすことも少ない(代わりにフキダシが交差してキャラクターの心理を通わせている)。ただ両者に共通していると思われることは、他人の言葉を拒絶する・独り言であることを強調している感じ、孤独感と隣り合わせの言葉であるということだ。言葉を囲むベタ塗りは、他人からの情報を遮断しているのである。9巻48頁の一頁真っ黒の画面に浮かぶ「ぼくだけ 笑われた」というシュウの孤独感は、普段コマ構成が単調であるだけに、読者に強烈な印象を与えるだろう。
 外からの情報はフキダシが被さることで成立する。シュウを煽った土居は、本当に女装して登校したことに「バカじゃん おまえ」と放言した(9巻85頁)。この時のコマの中は真っ黒。別にシュウが目を閉じているわけではない。何もモノローグできないシュウの心理と、それを苦とも思わない土居の冷めたセリフがフキダシによって交錯しているのである。
 かように志村マンガにおける真っ黒なコマは、キャラクターの心理を物語る上で欠かせない表現となっている。場面転換にも応用されるこの演出により、劇中では、キャラクターの心理から他の全く異なる状況に場面を移動したり、時間を省略したり、様々に用いられている。直線な長方形のコマ枠の単調さが、あっちこっちに飛ぶそうした物語の流れを制御しているようだ。
9巻100頁
9巻100頁

 それが9巻100頁で一瞬崩れるのである。3コマ目「すごくない」である。
 回想場面でコマ枠がフリーハンドで引かれ歪みを見せることはあったが、ここまでコマ枠が乱れるのは珍しい。目を塞いだシュウの心情をコマ枠の荒さで表現した瞬間である。眠りに入る・目を閉じるといった自然な流れを維持しつつも、このコマには単調さがない。シュウが、土手沿いで膝を「強く」抱えて「力任せに」顔を伏せている様子がうかがえないだろうか。キャラクターが激した時に、フキダシやコマ枠が鋭く斜めに切り取られることはよくあるのだが、とてもおとなしい性格として描かれているシュウを囲む枠が、かように乱れることはあまりない。その乱れ方も、単調さを崩すような斜線やコマ構成ではなく、それを維持しつつの荒さというか粗雑さなのである。土手を通りかかった千葉さんが言うところの教会を通じて知り合った「いけすかない」少年・フミヤが、この土手には不良がよくたむろしていると語る場面があり、今日はいつもと毛色の違う少年が蹲っていることに驚くわけだが、シュウの心中は不良のように・コマ枠のように不安定でやさぐれているのだ。
(2009.10.14)

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