「げんしけん」第3巻

講談社 アフタヌーンKC 「げんしけん」第3巻

木尾士目



 キャラクターの精密な設定は多分「四年生」「五年生」のころからやってたと思う。部屋の模様とか服装の趣味とか、細かくやってたに違いないが、そんなところに目を向けさせない排他的な描写があった。長々と続く会話が余計に読者を苛立たせた。漫画だもん、やはり絵がないとつまらない。この会話の背景というものも実に単調だったし、緩急のないコマ割に演出への配慮が感じられなかった(以前ここで書いたこと)けれど、本作についてはもう読んでて心底楽しいのである。私は同人経験もないしコミケにも行かないしゲームもあまりしないが、だからといってこの作品をオタクの事情がわかって面白いという視点にはならなかった。だって、本当にこの漫画が面白いからだ。
 だが、そんな感想をおおっぴらに言っていいものなのだろうか、という不安が大きくなってきている。
 1巻の頃は、まだ「五年生」の影を引きずっていて、絵柄を変えようとしているものの、画面は書き込みが多く(特に陰影が目立つ)、また特異な趣味を持った彼らの生態を客観的に描くという意味で、そうでない人との対比も強調されていた。ここは主人公が笹原ということもあり、彼が外界との相違を実感させる上で必要な描写と言えなくもない。やがて彼は成長し(2巻114頁、斑目「成長したか?」。これが3巻126頁で「立派になったな」)周囲の雑音を気にしなくなっていくとも読めるが、1巻64・78頁では彼以外の先輩も気にしていることがわかる、つまりオタク達を一括りにして、彼らと同世代の人たちとを差別(それは当然読者とのギャップでもあり)……じゃなくて区別しようという趣が強かったと思われる。オタク達の日常って一般人と比べておかしいだろってな感じがあったからこそだろう。それが個々のキャラが立ってきてしまったものだから、彼ら自身の日常を描くだけでおかしさが十分描けてしまえるようになった。もちろん、非オタクとして春日部や笹原妹の存在も大きいことは言うまでもない。
 何故このようになってしまったのだろうか(いい意味でね)。「陽炎日記」などの巻末の「赤っ恥劇場」・「五年生」カバー裏のあとがきで自らのバカさ加減をネタにしているところに本作品への礎が見えるが、作者は前作との差をそれほど意識はしていないかもしれないし、連載を重ねる上で一話完結の物語を描くコツを掴んだという点が一番だろう。また高野文子がアフタヌーンで読み切りを描いた時に彼女のアシスタントをしている点を個人的に見逃したくないが、ひょっとしたら少ない線・わずかなコマで多くの情報を詰め込んでしまう高野流を学んだのかもしれない。いずれにしても第3巻では1巻の「五年生」ぽさがほとんど抜けきっているのだ。よくよく見れば陰影は描写されているし服の皺の線の密度も若干薄くなった程度である。なのにこの印象の差は何事か。
 結論から言うと、デフォルメが多用されているってことだ。1巻第1話の各キャラの表情と3巻を比べれば一目瞭然だろう。斑目が力説していた脳内補完による想像力の重要性や田中が語る記号論が、本作に染み込んでいたのだ(特に第18話は表情が壊れまくっている、あたかも「あずまんが大王」のような顔になるキャラたちに、「五年生」の面影はない)。でも、これは危険な兆候ではないだろうか。危険とはいささか大げさではあるが、オタクの日常を描く漫画そのものがいつのまにやらオタク漫画になっていたのである。すなわち、オタクでない君もあなたも知らず知らずオタクの世界に引き込まれていたのである、まるで春日部のように。私はオタクじゃないと言い張ったところで、ではこの漫画は何? と指し示されたときに思わず口ごもってしまう怖さが潜んでいるのである。元からオタクならいい、しかしこの漫画を読んで私たちは知ってしまったのだ、全く縁のない世界だと考えていたオタクたちの世界を! 恐ろしいことである、これは恐ろしいこである。コミケに行ったことのない私は、コミケの模様を知ってしまった(当然本作で描写されていることが全てではないだろうけど、世の中にはコミケの存在自体知らない人もいるんだよ)、コスプレも知ってしまった、エロゲーも知ってしまった……そういう世界が存在していることを知ってしまった。考えられねー。これを読むまではちらっと見聞きする程度でどうでもよかった事柄・オタクたちだけのイベントがそうでない者にもリアルになったしまった(別にオタクの皆様を嫌っているわけではないけど)。笑う側の読者が奇妙にも笑われる側・同類になっていた衝撃は計り知れない。
 けれども嬉しいのは漫画を読んでいるんだなーとしみじみ実感できるところにある。この作品はもはやキャラクターの個性によって物語が展開されるようになっている、性格を描き分けることで会話が転がっている、行動まで記号化し、果ては描写までそれは及ぶと、物語の魅力はさて置かれてキャラの魅力が台頭してくるのである。第3巻のその顕著なる事。日陰者たちを夏の浜辺に連れ出してみたり、女性と二人っきりにさせてみたり、物語はその発端だけ用意すれば事足りてしまうのである。もはやシチュエーションコントの世界と言ってもよい。そして際立つのが洗練されつつある演出。もうだらだら感がないテンポの良さ、これが軽快で心地よい読後感を誘っくれる。実際に見てみた。
 コマの密度は「五年生」からあまり変化してないんだが、一コマに詰め込まれている情報量と省略の妙が話を濃くしている。12頁下段、左端から来る北川、構図で斑目と春日部の会話中に誰か来たってのを表しているよね、フキダシで視線もそちらへ誘導しているし。さりげない読者への配慮である。北川の登場は16頁2コマ目で軽いギャグに転化までしている無駄のなさ。37頁はジュースを買って渡す場面、ここね、以前の作者だったらジュース選びから延々と描いていたと思う、春日部は何が好みかとか無難な飲み物は何かとか、あれこれと。それらを端折っていきなりジュースを渡すのである、そして38頁5コマ目。これも常道の演出だが、すでに一本飲んだことを示す倒れた缶(このコマはそのまま49頁8コマ目に縮小コピーされて流用されている、この辺りだけコマが極端に小さいんだな、おそらく省略しすぎて斑目が何故トイレに駆け込んだのか読者にわかりにくいと判断して締め切り間際に書き直した結果なのかもしれない。けどコマが小さいことで狭いところに閉じこもったと言う感覚が強まり、次頁・トイレから出て来るコマで読者の視点も解放されてほっとする、ということまで計算していたのかな)。52頁1コマ目、「幽明の恋文」10巻ですよあなた、それまで9巻を読んでいた春日部はラストで10巻目を読んでいるわけだ、この劇中マンガは2巻29頁でも彼女が読んでいて、室内でファッション誌を中心に読んでいた彼女も実はすでに漫画を読んでいたという事実を二人っきりになることでようやく発見させたのだ。ぬかりないね、この辺り。漫画やアニメが周りにいくらあっても戸惑わなくなり、やがてオタク湾に沈められる……
 第15話は笹原の性格がよく描かれている。春日部の水着姿におたおたする先輩に対し、妹で見慣れているのか・海水浴の経験が多いのか、笹原はいつもどおりの影の薄さを発揮していながらも春日部の声によく反応して答えている。場違いな雰囲気に緊張でもしているらしい先輩の無口なこと。63頁でも彼は微妙に泳ぎたがっている表情がうかがえる、先輩に気を遣っている様子がけなげである。で、67頁で暗に泳ぎませんかという顔をする彼。68から69頁の斑目も面白い。削れる描写はどんどん削っている、ネーム作りはかなり辛いだろうけど、出来上がった作品の爽快さは今までないんじゃないか、というくらい作者の楽しさが滲んでいる。95頁1コマ目なんか、携帯電話する高坂、その奥に相手の春日部も描かれてて、輪郭線で携帯持っていることがわかる、1コマだよ、わずかこれだけ。
 なんで前作は削って描かなかったんだろうか。ほんとに不思議である。編集者が甘やかしているんじゃないのか、かなりひどい構成だったし。木尾氏は「げんしけん」でやっと漫画家になった。

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